DTM

「にじいろのうた」の歌詞はブチ切れながら書いた

DTM 創作 隙あらば自分語り

どうも、Dance on Yakiudonです。

去るMIKUEC2020、テーマソングである「ナナイロ」をななみつき氏と担当する光栄な機会を頂きました。めちゃめちゃ良い作品が出来上がってよかったです。

さて、MIKUEC2020に私はもう1曲提供しています。公式コンピ「ナナイロ」に収録された「にじいろのうた feat.音街ウナ」です。

現在YouTubeおよびniconicoに投稿されていますのでよろしければどうぞ。

MIKUEC2020のテーマは「カラフル」。にじいろのうたもそれにちなんだものとなっています。

それと同時に、にじいろとは相反して一色に染まり上がる日本のカルチャーに失望する内容でもあります。

米津玄師が嫌いである

まず、私は米津玄師の作る音楽が好きではありません。

彼の人格や経歴どうこうではなく、単純に彼の音楽が私には全く響かないのです。

だからといって私は彼の作る音楽が劣っているとは思いませんし「好き」という思いを否定するつもりはありません。

人にはそれぞれの好みがあり、時には相容れないことは分かっているつもりです。

しかし今の日本は私のような人間を許してはくれないようなのです。

大衆の評価は絶対的という傲慢

言わずもがな米津玄師は現在日本で最も人気と言っていいアーティストです。

彼の作る音楽は絶対に良い、批判する人はおかしい、何故なら大半の日本人に愛されているからーーーー そう考える人が少なからず居るでしょう。

彼らの言い分は結局「大衆が好むものは絶対的に優れている」という極めて自分勝手なものです。

そして嫌う人間を「世間と違う俺カッケー!!」などという厨二病として一括りにするのです。

世間で多様性が叫ばれる中、日本人は結局心の奥底で画一化を美徳としている、そんな気がしています。

そしてTwitterで「大衆の流行に乗れないのは『自分には本来持ち合わせている感受性も美的センスも存在しない』と自白しているだけ」という意見を目にし、遂に怒り心頭といったわけです。

そして歌詞に怒りをぶつけた

“君は今何色の絵の具で どんな生活を描こうとしてるの?”

私は多様性を色になぞらえ、歌詞を書いていくことにしました。

“違う人なら違う色 絵の具たちが混ざってカラフルになる”

人それぞれ違う好みがあるのだから、絵の具を置いたパレットは鮮やかに彩られているはずです。

“虹色に彩られた世界を 僕はさらに鮮やかにする”

自分の作品もまたひとつの多様性であり、他にない独自のものです。

“僕は歌いたい 自分の色を描き出すために”
“それが虹色の 一部分になれたらいいな”
“君の描く虹に 僕の曲が溶け込めるかどうか“
”分からないけれど 僕はずっと歌い続けるよ”

自分の作品を人に見てもらうというのは、自分の絵の具を他の人のパレットに乗せる行為です。

絵の具を受け取った側は気に入れば自分の色の一部にし、そうでなければ払い捨てればいいのです。ただ作品を作る身としてはやはり前者を望んでしまいます。

“だけど今周りを見渡せば 誰も彼もが同じ色を好んで”

今の日本にフォーカスします。

日本人は日本人という集団として同じものを好みがちであり、それを逸脱した者を笑い者にするフシがあると思っています。

“七色の虹の綺麗さは もう誰も覚えてない興味もない”

多様性とは名ばかりで、はみ出し者を嗤っているじゃあないですか。

“僕は一色に染まった世界に 自分色の絵の具まいて”

そんな中でも作品を通じてできることは自分の色を表現することだけです。

“僕は歌いたい 自分の色を描き出すために”
”それが虹色を また蘇らせられるように“
“君の描く虹に 僕の曲が溶け込めるかどうか“
”分からないけれど 僕はずっと歌い続けるよ“

若干の無力感はありつつ、自分らしく表現することを辞めたくはないのです。

”僕の声が届く人なんて ほんの一握りだ“
”僕が歌ったところで 何も変わらないけど“

特に私のような零細クリエイターともなるといくら表現をしたところでかなり低い水準で限界が存在するのが事実です。

”全ての人が 違う色を持ってるこの世界で“
”自分の色を描けるのは 僕ひとりなんだ“

しかしいくら零細であろうと「独自性」というものは全てのクリエイターに備わっているものです。

”僕の曲を聞いてくれて 『好き』と言ってくれる人が“
”一人でもいるなら 僕はずっと歌い続けるよ“

極端な話、自分の絵の具を一枚のパレットに垂らすことができればクリエイターとして成功だと思っています。それが何十枚、何百枚となれば当然嬉しいですがね。

自分にしか作れない自分の作品が人から評価される、それだけでクリエイターとしての私は幸せなのです。(向上心がないと言われればそれまでですが。)

VOCALOIDは「世界に通用する音楽シーン」から「巨大な内輪界隈」に成り下がろうとしている

DTM 創作 隙あらば自分語り

私はVOCALOID界隈に警鐘を鳴らしたい。

どうも、kayolabo801(作曲名義はDance on Yakiudonになりました)です。

時の流れは残酷なもので、VOCALOID文化が花開いてからもう15年が経とうとしています。

そんな中でVOCALOIDという音楽シーンにも大きな変化が生じました。

懐古厨にはなりたくないので変化というものは原則受け入れる主義なのですが、どうもVOCALOID界隈は段々「音楽シーン」とはかけ離れたものとなっている気がします。

ボカロPの「表現者」化

VOCALOID黎明期に幅を利かせていたアーティストはもともと著名なコンポーザーで、彼らはVOCALOIDを楽器として「歌わせてみた」というスタンスで曲を作っていました。

元々VOCALOIDでない音楽を長く作ってきたのですから、当然作る音楽は一流です。

元々ボカロPというのは「作曲者」だったわけです。

しかしそれから少し経った2010年あたりに転機が訪れます。

曲に込められたメッセージ性、作り上げる世界観を全面に押し出したボカロPの台頭です。

彼らの曲の音楽性が悪いとは微塵も思いませんが、彼らの曲は「音楽」としてではなく「世界観込みの技巧的作品」として評価されました。

彼らはどちらかと言えば「表現者」の側面が強いと私は考えます。

それから現在に至るまで、音楽としての良さを追求するボカロPと世界観を追求するボカロPとで二分されたVOCALOID界隈が形成されていったように感じます。

しかし、有名になれるのは大抵後者です。

即ちVOCALOID曲を聴く人の需要は「音楽」よりも「世界観」にひどく比重が偏っている、そんな気がします。

VOCALOIDの「巨大な内輪界隈」化

現在でもVOCALOIDで重視されるのは音楽より世界観です。

niconicoで人気になった曲には歌詞について長文の考察が連投されるのが当たり前になりました。

深読みの楽しさを否定する気はありません。

しかしそれは「音楽」としての楽しみ方なのでしょうか。

皆さんご存知の通り今やVOCALOIDは世界中で親しまれるコンテンツとなっています。

ただ、外国のVOCALOIDファンが日本人のように歌詞の深読みで世界観に浸っているとは思えません。

彼らは純粋に「音楽」としてVOCALOIDを楽しんでいます。

このままVOCALOID界隈において技巧的に紡がれた文脈や壮大な世界観ばかりちやほやされ続けたらどうでしょうか。

VOCALOIDは日本という巨大な共同体における「内輪」コンテンツになってしまうのではないでしょうか。

これからどうすべきか

ここまで肥大化した世界観重視のVOCALOID界隈を止めようたって無理な話ですし、逆に衰退を招きかねないので止める気もありません。

ではVOCALOID界隈はこれからどうすべきなのか。

私は「もっと『作曲者』としてのボカロPにも世間が注目すべき」と考えます。

世界観重視のボカロPと音楽性重視のボカロP、供給はどちらも十分です。というか過多です。

リスナーがVOCALOID曲の「音楽」としての良さをもう少し意識してくれるだけで私の考える理想は実現します。


以上、偉そうに御託を並べたわけですが、これが「ボカロPをしながら『表現者』になれそうにない自分の嫉妬が詰まったひねくれた思想である」ということは重々承知しています。

でも最後に言わせてください。

VOCALOID曲は「音楽」なんです。

VOCALOIDは「楽器」か「人間」か ~”Star”に込められた真意~

DTM 隙あらば自分語り

どうも、絶賛バイト中のkayolabo801です。(バイトちゃんとやれ)

さて、「VOCALOID」という文化はもはや日本中どこにいても聞くほど非常にメジャーなものとなっています。

皆さんご存知のとおり「VOCALOID」はYAMAHA社が開発した歌声合成エンジンで、その中にクリプトンフューチャーメディア社の「初音ミク」、インターネット社の「GUMI」、1st Place社の「IA」等のライブラリが存在します。

VOCALOIDはYAMAHAが開発した「楽器」であることは間違いありません。

しかし、今はそれだけで括るべきではない、いや、括ってはならないのではないかと考えています。初音ミクをはじめとするVOCALOIDのキャラクターはステージの上で歌ったり自らをテーマとした曲を数多く持ったりし、「人間」として扱われているところが非常に大きいです。

MIKUECの空気に馴染めなかった自分

私は2018年の大学入学と同時に零細ながらボカロPとしての活動を開始しました。そしてその年の11月に開催された第2回MIKUECライブに感銘を受け、「VOCALOIDクリエイターとして手伝えることはないか」と思い翌年5月に運営サークルである電気通信大学バーチャルライブ研究会に入部しました。

当時の私はVOCALOIDを「楽器」としてとらえ、自分の打ち込んだ通りに歌ってくれる音声ライブラリとしか思っていませんでした。

しかし入部して目の前に現れたのは、VOCALOIDが「人間」であることを前提とした創作活動の場でした。

楽器であるはずのVOCALOIDが「生きている」扱いを受け、皆がそれに賛同する。私は強烈な違和感を抱きました。

サークルの空気に馴染めなさ過ぎて、退部を考えていた時期もありました。

初音ミクに「絶望」したボカロP

VOCALOID文化に詳しい方なら誰を指しているか一瞬で分かるかと思います。

私が先述した葛藤を繰り広げている中、マジカルミライ2019が開催されました。

マジカルミライ2019のインタビュー記事によると、彼は「偶像として自立していきボカロPのものでなくなっていく初音ミクに『絶望』した」と話しています。

彼はVOCALOIDを完全に「楽器」として扱い、「人間」として扱う文化に異を唱えたのです。

しかし、私はこの考え方に賛同すれど、ひとつ違うと思った点があります。

マジカルミライ2019テーマソング「ブレス・ユア・ブレス」の中にこのような歌詞があります。

『 今やもう 誰の目にも同じ ひとりの人間 』

初音ミクを人間として扱う文化は確かに主流ではありますが、それは「ひとりの人間」としてのものではないと私は考えます。ボカロPをはじめとするクリエイター、及びボカロ曲を聴くすべての人にそれぞれ違う「初音ミク」が存在する、というのが正しい解釈なのではないでしょうか。

以前「初音ミクと結婚する」と宣言した男性がいらっしゃいましたが、騒ぎ立てる人はごく少なかったですね。これは皆が「初音ミクのことを考えるすべての人にそれぞれの初音ミクがいる」ことを認めているという証拠に他ならないのではないでしょうか。

“Star”は私の出した結論

そんな中自分はVOCALOIDとどう向き合っていけばいいのか。ずっと考えていました。

そんな中第3回MIKUEC公式アルバムの楽曲制作が始まりました。

私はMIKUECのテーマである「ワンダーランド」を完全無視し(マジでごめんなさい)、この場で「私はVOCALOIDとこう向き合っていく」という決意を表明しようと考えました。

そしてひねり出した歌詞が「VOCALOIDを「楽器」として購入した主人公が伸び悩む再生数に苦悩するも、自分自身の役目は『自分が持て囃される』ことではなく『VOCALOIDを輝かせてあげる』ことであると気付く」というものでした。

つまりはVOCALOIDが「人間」であるという考え方に迎合したわけです。

誤解を招かないように申し上げると、私が「VOCALOIDは『楽器』である」という考えを曲げたわけではありません。

私は今、VOCALOIDを「楽器であるが、擬人化して楽しむこともできるもの」であると考えています。そして「擬人化したほうが楽しいから人間として扱ってみようか」と考えたのです。

まとめ

VOCALOIDが「楽器」であるという考え方と「人間」であるという考え方は決して相容れないものです。

しかし、それを争う必要などないのではないでしょうか。

VOCALOIDを想う人全てにそれぞれ違うVOCALOIDが居る。私はそれでいいのだと思っています。